目次-人と魂-
人の構造
現代医療の目覚ましい発達により人体、肉体の仕組みが多々解明されてきた。しかし同時に人体は肉体のみにより有るものではない事も様々な思想にて言及されている。健康な人体は正常な肉体を必要とする様に、肉体以外の人体の構成もまた正常な状態で有る必要がある。人体の構造は下記の「一魂七魄」から成り立つ。
1肉体:三次元、ここ物質世界にて定まった形での物質的表れ。
2霊体:主に人の思考や理性を司る。その霊体の過去(前世)における行や業も集積されている。また、霊体の出生元は魂である。
3幽体:主に人の感情を司る。魄と魂の交差点としての役割を担い、魂から発する想いを肉体および精神に交差する。
4荒魂(あらみたま):人の生命維持に関わる神経のアンテナの役割。食欲、生殖、本能等、生命維持や生活を送る上で必要な「欲求」を司る。
5和魂(にぎみたま):寒さ、暑さ、また喜怒哀楽など、体が感じる五感全てのアンテナの役割を司る。
6幸魂(さちみたま):原因と結果を結びつける働きをしており、原因と結果を考慮する理智としてのアンテナの役割を司る。
7本体:魂の容貌。神霊界における神魂の容貌。
魂・奇魂(くしみたま):魂であり神の分け与え。人のその先は神であると語られる事があるが、人の本体・魂は神の分け与えであるからである。
これら七つの魄と一つの魂により人は構成されており、これら全てが正常であるとき人は健全な状態にある。肉体は物質的表れであることから幽体の状態を表す。病める状態では双方に異常が生じており、肉体のみもしくは幽体のみが病む事はない。また、幽体は感情を司ることから、幽体に生じた異常は物質界ではまずは感情面に現れることが多い。「病は気から」という言葉の通り、精神を病むことは幽体に何かしらの異常が生じており、それが感情のみならず肉体の病に繋がる事となる。健全な身体には健全な精神が必要であると言われている様に、幽体が精神の表れでもあり、肉体での感情及び健康状態と密接に繋がっている。
前世とは
一個人の前世は今世の当人と同じ神魂と霊体を有する。また、同じ神魂を有していても霊体が異なる場合は前世という概念とは異なる。まず、前世とは何示すのかを説明するためにはここ三次元界の人と神魂との位置関係を明確にする必要がある。
人の統制・制御の主体として神魂は元となる神から何パーセントかを分け、6ヶ月目の胎児へ入る。元の神魂を100パーセントとした時、通常約20〜30パーセントを三次元界の人体へ宿す。残る70〜80パーセントは神霊界へ止まるか、もしくはそこからさらに何パーセントかが別の個人へ宿る事がある。この場合、同時期に同じ神魂からの魂を持つ人が二人以上存在することも可能になる。かつてこれらの事象を知る人々は同時期に存在する同じ魂を持つ人々を魂の兄弟・姉妹と表現した。
人が三次元界で生存する以上はその体に理性や思考の主体として霊体が存在する。三次元生活を送る中でその霊体にはその人生での行いや罪(業)が記し込まれる。そして一個人の肉体が生命活動を終えた後に霊体は四次霊界、魂は四次神霊界へ還元され三次元界で実らせた業績や罪等を納める。そして、再び同じ部分の魂が三次元界にて生まれつつある人に入る時、前回と同じ霊体を身につける。この様にして生存した二個人の関連が前世と今世である。
前世での行いが記されている霊体を身につけ今世での生活を送る際に、無意識に前世にて培ってきた現実界を生きる術を発揮することが多い。従って、生まれ変わりの回数が多いほど三次元界にて生きる技術を備えている傾向にある。しかし同時に、前世において作った罪(業)も背負う事となる。神魂及び霊体はその業を解消させるべく困難をその個人へ課す。それは本人、前世が行った罪の償いであるとは言え、三次元界での肉体の記憶はそれを認識することは通常不可能であり、肉体面及び感情面にて苦難を経験する様な出来事を当人へ与える事が常である。生まれ変われるたびに身につける霊体をその個人の着物と例えるならば、業の解消は着物を清潔な状態へ保とうと言う神魂及び霊体の意思である。
時には近代においても初めて三次元界の人体へ入る魂もある。つまりその個人には前世は存在しない。霊体も初めて身につけるものであるため、前世での罪等は存在しない綺麗な状態である。しかし、霊体の現実界での経験がないため三次元界の社会を生き、その術を身につけるには困難を経験する。一方、神々の話や魂についての話は理解しやすい傾向にあり、それはその霊体は三次元界を経験した事がなく、神魂は長らく四次神霊界のみで生活をして来たためである。
業
業とは一個人が行った罪の総称である。業は基本的に霊体へ刻み込まれ、輪廻の際にはその霊体とともに業も引き継ぐ。とかく前世での罪を業と表現する傾向にあるが、業は今世においての罪も含める。その肉体を持っているときに負った過去の業も、前世での行いにより作り上げた業も、その霊体には同じ様に記憶される。
業に値する行いは現実界での道徳に背くこと全般が挙げられる。また、現実界の道徳も思想により異なりを示すが、基本的道徳概念に背く行為である人を傷つける、盗む、騙す事である。しかし、霊体に業として認識される事象には他者に対して害をなすものだけではなく、自身に対しても負の感情や状況を作り上げることになった行為も含め、後悔や未練等も業の一部となる。
他者を傷つけずとも、来世において解消すべき業となるものは前世の終末期における強い未練、後悔や悔しさなどのやりきれない気持ちである。これらの業を持ち人生を歩むことは、同等のやりきれない気持ちを経験しそれを乗り越える事情が今世もしくは来世に用意されている。また、未練による業の場合、その事情が満足するに足りる事象により解消する事もある。しかし、前世での願望に対し満足すると言う形で業の解消する事が良いとされる場合は、三次元界への誕生理由が業の解消を主としている事が多い。
生涯をかけて前世での業を償うべく人生を送るため現実界へ現れる霊体の状態は贖罪と呼ばれ、贖罪の霊体にはその主である神魂はその業を解消するべくその個人へ困難を与えそれを乗り越える様に働きかける。しかし、三次元界に生きる肉体の認識においてはその贖罪を感知するに至ることはその解消を終える前後であり、それまでは理不尽とも思える逆境に立たされることが多い。
現実界を生きる上では多くの人は大なり小なりの業を形成するが、それを当時の人生において償いつつ成長する事が来世へ業を持ち越さず、霊体をより清潔な状態へ保つ事である。また、その霊体及び肉体の主である神魂はそうあるべく働きかける。この曲り世の終焉でもある三千年の世界では、神魂の思いはその霊体をまっさらなあるがままの状態である様に願いかけるが、真実を欠いた異質な変質的思想の蔓延る世において、業の解消がより困難となり、さらなる業を形成する事も多々ある世であった。しかし、いかなる曲り思想の蔓延する世においても、それにより現れる困難をも時代に即した方法により業の解消のプロセスとなる様に神魂は働きかける。現代社会では困難を伴うことでもあるが、その個人が魄を主とするのではなく神魂を主としたまっさらな状態にいる事が業を打ち消し霊体の清潔さを保つ事である。
運命と宿命
運命と宿命は同義語として扱われる事例が現代社会では多いが、両者の相違点は前者・運命は複数あり、また自身の選択により変化が可能なものであるが、後者・宿命は自信が人生におけるどの様な選択肢や行動を選ぼうとも必然的に起こる事象を指す。
運命の概念は四次元的なものであり、時間や距離の概念が無く、一つの運命の線は一点として捉えられる。運命の線は一個人の選択や行動により変化することが可能であり、その際には異なる一点としての運命の線が成り立ち、またそれも再び変化する事もある。しかし、複数ある運命の線の中から三次元において歩む道を選択する事はできるが、存在しない運命の線を選ぶ事は不可能である。三次元での起こりうるまた実現する事象は全ていずれかの運命の線上に存在するものであり、いずれの運命の線にも存在ない物事は起こらない。
運命の線の中には最良のもから過酷なものまで存在するが、自身の魂、霊体はより良い運命の線を選択する様に意思を働きかける。その意思を幽体及び肉体が受け取れる状態にある時は、良好な運命線を選ぶことになる。しかし、生活における出来事に対し、それを受け取る幽体が感情を主とし、欲、不満、怒り等を先導させた状態においては、より過酷な運命線を選択する傾向にある。
過酷な運命線を歩む様に導く要因の一つは業であり、それを解消する目的で霊体が苦難の多い運命へと促す事もあるが、それを乗り越えた後にはその霊体が清潔な状態へと戻れた成果を実らせたこととなる。この可能性を踏まえた上では、霊体は意図して過酷な人生を歩む様に働きかけることがある。しかし、運命線にて起こりうる過酷な事象は、その個人が乗り越えられるもののみであり、苦難の末に潰れてしまうことが必然である事象はいずれの運命線にも存在しない。
宿命とは運命と異なり選択をする事は不可能である。その個人がいかなる運命線を歩み、成果を実らせるまたは堕落の人生を送れども必然的に直面する一点が宿命である。つまり全ての運命の線は宿命と言う一点で交差しており、どの運命線上を歩んでいたとしても宿命の一点は必ず遭遇する。

宿命にて起こる事象は幅広く、三次元的に喜ばしいものから苦難を伴うものまで存在しうる。代表的な例では特定の仕事を担う、人物と出会う、子供を授かる、病気をする等が挙げられる。苦難を伴う宿命であってもその目的は良い成果を実らせるためのものであり、宿命により起こる事象は全て善へと繋がる。医師野口英世氏は幼い頃に手に火傷を負い、その経験から自信が医師を志す事になったが、その火傷は彼の宿命の出来事であった。
運命と宿命の区別は難しく、現実界の生活において見分けることはほぼ不可能である。一見偶然のことのようにして起こった出来事が宿命であることも多々有る。宿命に気づく事は長い人生を振り返った時に、その事象はこの人生において必然的に起こったもので有ると実感する人も存在する。
四次元での会話
ここ三次元界での意思の伝達は言葉、行動、シンボル等の視覚や聴覚などを主体として行われる。それらは個人の発する意思を象徴するものであり、その受け取り主はそれらを解釈し、発信者の意思を理解しようとする。
四次元界にもコミュニケーションは存在し、霊体や神魂は互いに意思の疏通をする。三次元界にて肉体を持った個人におけるコミュニケーションとの主な異なりは、霊体は言葉やその他表現を媒介とすることなく、意思と意思の直接会話によって成り立っている。したがって、嘘や隠し事は不可能であり、思うことはそのまま相手に伝わる事が四次元界での意思の伝達である。
三次元界では、物質としての情報伝達においては偽ることや隠すことが可能である。それは言葉を主な媒介として意思の伝達が行われているため、自身の意思や思考とは異なる言葉を発し偽る事、思うことを言葉として発さずに隠すことが出来る。それらは時に社会生活をより円滑に進める利点にも、人に偽る事で一方が利益を得て他方が損失を被ると言った欠点にもなりうるため、善悪の基準で総括することは難しい。
三次元の肉体とそこに重なる四次元の霊体においても意思やりとりは行われる。一個人の霊体は自身の肉体に対しても常に意思をかける。またそれ以外にも他者の霊体および肉体へ意思をかける霊体もおり、それらはこの個人を見守ることでプラスの意思をかける霊体、因縁からマイナスの意思を投げかける霊体まで様々であるが、その意思の内容を肉体の意識が受け取ることは通常は不可能である。時にそれらを感覚として認識する個人も有るが、霊体からの意思を具体的に理解することは三次元界では通常不可能であり、その様に三次元は作られてある。また、言霊は言葉そのものが持つ力であるが、言霊が本来の力を発揮するときはその言葉と意思が同じ方向を持っている時である。意思とは異なる言葉、偽りが発せられた時、その言霊はまもなく消え、偽りのない言霊のみが残る。
しかし、四次元界での存在である霊体においては、三次元での肉体から発せられる意思全ては認識される。言葉およびその意思は、発せられた言葉もそこにある意思も同時に霊体は受け取る事ができる。従って霊体は物質的に表されたコミュニケーションの伝達のシグナルも、その個人の意思も読み取れる。言葉と意思が同様で有る場合は三次元界でのコミュニケーションと大きな差はないが、意思とは異なる言葉、偽りを述べる際には、その偽りの言葉および真なる意思も同時に伝わるのが四次元界での存在である。
四次元における会話は全て意思のみで成り立っており、三次元界の様に嘘偽りを発することは不可能である。それが故に、霊体および神魂は常に自身の方向性を持って生きており、自身がいかなる存在であるかを示している。神霊界においてはかつて未熟な状態の神魂が曲がった思い・意思を持ち、またその思いを果たし解消するためにその思いの道を進み混沌を生み出した時代があったが、それらもまた自身の意思を偽れることが無い中、思いの丈を果たす様に方向性が定められたためである。
モーセの表十戒第三戒
モーセの十戒には表十戒、裏十戒、さらにはまだ公表されていない戒律も存在することが少しずつ認識されつつある。一部の研究者は裏十戒等が表十戒より真髄を記しているものであると考え研究を進めている。表十戒の内容は常識的な道徳観念が主体となっており、近年の研究者にとっての関心は、裏十戒の様に当時から近年に至るまで公とすることを憚る様な内容に関心が向く傾向にある。しかし、表十戒においても、三次元界の人と四次元界の霊体または神との意思伝達の規則に基づく内容も存在する。
表十戒の内容は以下のとおりである。
1、主を唯一の神とする。
2、偶像を作り拝んではならない。
3、神の名をみだりに唱えてはならない。
4、安息日を守ること。
5、父と母を敬うこと。
6、殺人をしてはいけない。
7、姦淫をしてはいけない。
8、盗んではいけない。
9、隣人について偽証してはいけない。
10、隣人の財産をむさぼってはいけない。
これらの表十戒の内容は現代社会においては基本的な道徳観念でもある。しかし、第三戒「神の名をみだりに唱えてはならない。」は日常生活においては宗教的概念として解釈をされる傾向にある内容であり、基本的道徳感と言う括りとは別に認識される事が多い。
三次元で発せられた言葉は四次元界の存在である霊体さらには神々にその言葉の意味、さらには意思も伝わる。つまり、時間や距離も超えて、いかなる際に言葉にした神の名前はその神の耳に届く。時間と距離の制限のある三次元界・現実界では、むやみやたらと発せられた人名が、その個人に聞こえなければ煩わされることはないが、必要以上に発せられた人名が本人の耳に入った場合は不快感を生じる可能性もある。
四次元界の存在にとって、発せられた自身の名前は距離も時間も無く聞こえてくる。したがって、その名を発する理由や動機が理にかなっている場合は良いが、むやみやたらと発せられた自身の名が聞こえてくることはその霊体にとっては不快に感じることもある。
三次元での人が納得のいく理由も無しに自身の名を呼ばれる事は、ときに良い感情を引き起こさないことと同様に、霊体または神も正当な理由なしにその名を呼ばれることを良いとしない事が多い。三次元の人のいかなる発言も四次元での存在は聞こえているため、三次元での人間関係と同様に個人の名、霊体の名、神の名を口にする際には十分な理由が合った上で道理が通る。