目次-日本古来の技法-
結界
日本には古来から結界という概念・技術が存在する。技術として確立された結界は大別して神道(古神道)結界と仏教結界である。それは宗教(古神道は宗教の括りではないが、ここでは便宜上広義で宗教と表現する)が元となり生まれたものではなく、あくまで結界という自然摂理を各宗教が技術として発達させて来た。結界を張るための気が自然界に存在し、それをいかに技術として完成させたかが神道結界と仏教結界の違いである。二者の特徴は下記の通りである。
神道結界は見える人が見れば青色をしている。また、下から上に向かって流れる弾力性のある気の帳である。目に見えぬ物質的存在ではないものに硬度を言及するのは違和感があるかもしれないが、気の性質にも硬度、‘硬い’‘柔らかい’の概念がある。神道結界は弾力のある気のカーテンの様な性質を持っており、それによっていわゆる悪き存在の侵入を防ぐ。一方、仏教結界は赤い色をしており、ガラスの様な硬い性質を持っている。神道結界と同様にガラスの様な気の帳によって悪きものから防御する役割を持つ。
二者の大きな違いは次の通りである。神道結界は全ての侵入を防ぐが、仏教結界は選択透過性と言う性質を持つ。人体に対して影響を与える目に見えぬ存在はいわゆる悪きものもあるが、人体の健康、成長に必要な良いものも多くある。太陽の光、空気、良い感情・言葉、植物などから発せられる、科学的にはまだ検出がされていないプラスの霊的存在である。神道結界は悪きものだけでなく、これらのプラスの存在が人体に入ることも妨げてしまうため、必要がない時には外さなければいけない。一方、仏教結界における選択透過性の機能は悪きものとプラスのものを分別し、悪きものは通さず良いものは取り入れる。
仏教結界の選択透過性の機能は非常に便利であるが、仏教結界を張る技術を身につけるためには長年の修行が必要となる。俗世と離れ自然の中での厳しい修行を持って身につけるのが仏教結界である。神道結界を個人で習得するためにも修行は必要だが、人体に元から備わっている気によっても張る事が出来る。しかし、それは弱く薄い結界であるため、神道結界を極めるには同様に修行が必要となる。
神道結界・仏教結界という括りは宗教による違いが強調されてしまう傾向にあるが、どちらもまだ目に見えぬ自然摂理に基づいたものである。また、結界の基本概念の様に悪きものを受け付けないことは人の精神生活で日々行なっていることに通ずる。健全な心身を保つために、生活における負の感情や思考に人体が影響されることを振り払い、明るい感情、言葉を受け入れることにより現代社会での各々の良いリズム持つことが必要であり、人は成長の過程でこれらのプロセスを自然と、時には苦難を伴いながら通っている。しかし、現代でも見られるようにこれまでの混沌とした時代に人体の健全な状態を乱す要因が多い中、結界は先人達が苦難の時代に人体に必要以上のマイナスを受け入れず、健全な状態を保つために苦労を伴い作り上げてきたものである。
除霊と浄霊
除霊と浄霊は両者共に個人、集団、場所または物への霊的影響を取り除く事を主な目的とする。霊的影響は霊種や影響を受ける側により異なるが除霊と浄霊の対象となるのは基本的にマイナスの影響である。除霊はマイナスの影響を与えている霊を別の場所へ移動させることによりその影響を外す。一方、浄霊はその霊の存在する次元を高めることにより三次元界への影響を取り除く。
除霊に必要となるのが「払い」と呼ばれている技術である。払いの技術にも様々な種類が有るがどれも対象となる霊を払い飛ばすことにより、影響を与えない場所へと移動させる。また、払い飛ばす先の場所がその霊を住まわせる事を受け入れるかまたはそのキャパシティーがあるかが重要となる。払い先がその霊を受け入れなかった場合は自動的に元いた人、場所等に戻っていくのが霊の世界での法則である。
この払いの技法は言うならば霊を殴り飛ばす手段を取るため、人の霊には使用せず、より霊的立場の低い存在、動物霊にのみ使用する事がこの世界での道徳である。また、払いの技法には失敗することがある。払いの失敗は払いを行った者の技術不足またはその霊が強力なものである際に起こる。払いの技法は特定の印によりその霊へ払いの技法を飛ばし当てることにより、その場所から指定先へと移動させる。しかし、払いを行う人のレベルや意識の曖昧さによってはその霊が払いの印を避けて回避する事がある。霊は一度の機会にその事象を学びとるため、同じ人が放った払いの印は2度とその霊に当たる事はない。払い飛ばし先の指定意識が曖昧であった際にも、その霊は次の居場所がないため繋がりの強い元いた人や場所へ戻ってくる。また、その霊が放たれた払いのレベルよりも強力なものであるときは、払いの印が当たったとしても効果を発揮しない。この状態になった霊を処理するには浄霊の方法を取ることになる。
浄霊は除霊とは異なり対象とする霊に癒しの気を送ることによってその霊の次元を上昇させ三次元界への影響を取り除く。三次元界の中でも次元の上下があり、高い次元はより四次元界に近い場所である。また、四次元界に近い、より高い次元に存在する霊はここ三次元界へもプラスの影響は及ぼすことができるがマイナスの影響を与える事はなくなる。かつて四次元界に近い部分に幽界と言うものが存在したが、今は実質的な幽界は存在せず三次元界から四次元界への次元レベルの一端となっている。
三次元界での次元の低い位置へ止まっている霊をより高い次元へ上昇させるには、その霊の状態を癒す事が必要となる。浄霊の技術の中に霊に対して癒しの気を送る技法が有り、それはその霊が持っている未練、苦しさ、執着等を解消させ、霊的次元が上昇できる様に促すもので有る。
霊の次元を上昇させる方法は癒しの気だけではなく、かつてから行われて来た儀式や作法が結果として霊に対しそのマイナスの状態を解消させた例もある。かつてアフリカのとある地域は、病気をした人にはその病気を起こす様に影響を与えている霊がいると認識しており、病気には霊の影響は実際に在った。そこでその民族はその病気の人を円になって囲み、踊りを捧げた。その踊りを受けて病気に影響を与えていた霊は彼らが自身のために踊りを捧げてくれる意思と行動から、その状態が癒やされ最終的には彼が影響を与えていた人物に障のない次元まで上昇する事が出来た。このアフリカの踊りによる浄霊は多くの人々により長い日々繰り返し行われたことによってその効果を発揮した。しかし、短期間での少ない人数による同様の儀式では霊に対して癒しの効果は現れなかったため、一つの霊を次元が上がる心境まで導くには労力と時間を要する。
この様に除霊と浄霊は目的としては三次元界への霊の影響を取り除くことであるがその作法には大きな異なりがある。また、人の霊に除霊の払いの印を使用することは、現実界では殴りつける事に相当するため、その人の霊の次元を上昇させる事へは妨げとなり、時に恨みの感情を産むこともある。人の霊はいずれにしてもそのマイナスの感情を解消し、より高い次元へと進むべきであるため、除霊と浄霊を行うものは霊の世界における倫理を認識する事が必要である。また、これらを心得る事により除霊と浄霊での「返り」と呼ばれる負の影響を避けなければいけない。
九字の印
九字と呼ばれる印を用いた日本の古来の技法が存在する。それは「臨兵闘者皆陣列在前」の全ての文字を総合したものであり、古神道、真言密教または修験道により発展されてきた。九字の技法を切る(発動させる)際に術者は次の印、手文字を組む必要がある。

図では左手が上になっているが、これは神道式であり仏教式の九字では右手が上になる。結界と同様に神道式と仏教式が存在するが、宗教がその発生元になっているわけではなく、人と自然の気の原理に基づいている。二者のいずれかの形であれども、上記の印によって九字を発動させる事でその術者の持つ気、オーラに連動される。九字の印は、それを発展させてきた団体の思想により、神道式や仏教式と分けられるが、いずれも人の意思、それを伝える印(手文字)とその術者の気が連動して働く自然の摂理を元にしたものである。
九字は払いの印の一種であり、その払いの効果により人体またその周囲にあるチリ・アカと呼ばれる一種のケガレを取り除く。このチリ・アカとは人体にとって思考、感情、時には健康への悪影響を及ぼすものであり、その発生元は幅広い。チリ・アカの生まれやすい事象は一応にして負の感情である。怒り、悲しみ、不安等のマイナスの感情が一個人の中で広がり強さを増す過程では、その感情はチリ・アカを生む事となり、その心境から逃れることを妨げ、時に思考や肉体への害をなす。また、これらは自身の中に生まれた感情だけでなく、他者の強い負の感情を受けた時にも個人、状況により大小は異なるがそのチリ・アカを受ける事もある。
九字によるチリ・アカの払いは、自身のオーラを波のように外へ放つことによって成り立つ。九字の印を組み、腹式呼吸での息を吐くことによって、術者のオーラは外に向かって解き放たれチリ・アカが払われる。九字の印によってオーラを解き放つことによって術者のそれが減少することはなく、体内から常にその術者のレベルに即したオーラは再びその人体へと補充される。
しかし、九字の印のみでは上記の様な効果を発揮することはできないため、形のみでの九字では払われるチリ・アカは非常に少ない。九字を自然と使いこなせるまでには修行が必要であり、古神道、真言密教、修験道の鍛錬の中には九字の印を発動させるためのものもあった。その鍛錬の過程にて九字の作法に異なりが生まれた事もあるが、自然原理を元とした技術であり宗教や思想が発生元ではない。
数字について
数字はそれぞれ性質や力を持っている。自身で選ぶ数字や生活の中で目にする数字、また選択肢が無く与えられるナンバー等はその個人の運の状態の一部を表す。また、個人が選択可能な数字の中からどれを選択するかによって運気の一部に徐々に影響を与えることになる。
しかし、ここで述べる数字の力はあくまで運勢の一部を表し影響を与えるものであり、一度や二度の選択がその個人の人生に絶対的な影響を与えるほどのものではない事例が多い。従って、生活や人生の選択肢においてそこで表される数字が必ずしも最良の選択肢であるとは限らない。また数字から与えられるプラスの力は微量に積もるものであるため、指折り数えられる限りの選択肢だけでは目にみえる変化はあまり起こり得ない。しかし、長期間における数字の力の影響は一個人の運勢に徐々に変化をもたらすため、日常的な数字の力の蓄積は決して侮れるものではない。
プラスの力を持つ数字は奇数「1、3、5、7、9、」及び「8」である。それ以外の偶数は単体ではプラスの力は持たない。また、「0」はマイナスの力を持った数字であり、プラスに変化することが出来ない。表される数字が日常において何を示すかは様々であるが、一応にしてプラスの数字は「3」と「5」である。「1」「7」「9」においてはプラスの力はあるが、それ以外の特徴も保有している。「1」は数字そのものとして「3」や「5」と同等に良いが、一番、トップを表すため、ベストな選択肢や抜きんでたものを象徴するにふさわしい特質がある。「7」は勝負事における運気を持つため、競い合いの性質を含む。また、「9」は「0」から「9」までの中で最も大きい数字であるため、より多く、多数を象徴する。従って、無難で目立つことない選択を必要とする場合には「1」「7」「9」と言った数字よりも「3」及び「5」がふさわしい。また、数ある物事から最も優れたものを表すには「1」が最適であるため、数字の持つプラスの力と固有の特質が噛み合った時に良質な運気と結びつく。
数字の羅列において最も影響力が大きいものは最後の桁であり、影響力は下三桁までである。つまり、桁数の大きい数字がある場合、右へ行くほど影響力が大きくなり、運勢等に影響力を持つ数字は最後の三つの数字である。
数字の選択肢がある際に、自然と無理の無い状態でプラスの数字を選ぶことが運勢を少しずつ積み上げることにつながるが、選択肢を与えられることなく数字を割り当てられることは生活において多々存在する。しかし、その際における一種の‘逃げ’、回避法は数字を足し合わせる解釈である。例えば「14」と言う数字を受けた場合、それぞれの桁を足し合わせて「5」と解釈することによって「4」の持つ影響よりも「5」持つ影響を選択することが可能である。しかし、この足し合わせは一度が限界であり、「464」を受けた場合、足し合わせで「14」までの解釈が限度であり、そこからさらに足し合わせた解釈による運の引き寄せは不可能である。
四桁の同数の数字はその意味が反転する。「2222」と言う数字は「2」そのものはプラスではないが、それが四つ並ぶことによって反転しプラスの運と結びつく。また、「1111」の様な数字は意味が反転し、「1」が本来持つプラスの力は発揮されない。しかし、「0000」はそれが反転しても「0」でありプラスへと変化することが出来ないため、「0」は強いマイナスの力を持った存在と言える。また、下三桁が「0」である時は最もマイナスの影響が強いとされる。
「9」は‘苦’を連想することから避けられることもあるが、「9」の数字そのものはプラスの存在である。しかし、「9」または「九」を名前等に含んだ場合は、数字よりもその言霊が優先的に解釈されマイナスの言葉となる可能性もある。言葉においても「九」が数字を優先的に象徴する場合は、マイナスの言霊の影響を受けることはない。これらの数字の選択はあくまで選択する数字とその背景の事情が融合した際に最良の運気につながる。無理にプラスの数字を選択するがために、自身にとって不利な選択をすることになった場合は、選択以前にそのプラスの数字には縁がなかったと捉えるべきである。運勢に対してプラスに働く数字はあくまで自然な意識の中で選択し与えられるものである。
家相について
家相による人体への反映は悪い影響はでは一年ほど、良い影響は4〜5年その家に住むことによって現れる。「凶相は走る」と言う言葉がある様に、悪い家相の影響ほど人体に早期に影響を与え、良い家相が人体へ利をもたらすには時間がかかる。
家の四角から角々を対角線上に結んだ点が家の中心であり、鬼門及び裏鬼門はそれぞれ中心から東北、南西であるが、南西の裏鬼門を鬼門と呼ぶ習慣もある。神や太陽は午前に東から上り、正午に二手に分かれ鬼門及び裏鬼門へと去って行く。従って、物事の始まり・事始め、進展、完結・事納めは午前中が適している。午前中は最も運気が上昇している時間帯であり、始まり、進展、完結はこの時間帯が最も適している。
鬼門及び裏鬼門は神が去っている場所であるため綺麗に整えてく必要がある。従って、次の様なものを鬼門や裏鬼門に設置することは凶相の一つである:風呂、トイレ、台所、吐き出し口、階段の登り口及び降り口、扉。一方、鬼門や裏鬼門に適しているものは倉庫、押し入れ、物置。または日常的には住民は使用しない客間である。古来の日本では、北東の鬼門における扉は「泥棒口」と呼ばれ、泥棒を呼ぶ相であるため、家及び土地の入り口は北東に設置すべきではない。
家屋及び土地は四角、正方形もしくは長方形が理想的である。三角もしくは円形の土地や家屋は運勢としては良くない。また、コの字形やロの字形の家も凶運であり、特に主人の心身の不調につながる。それらは人体を表し、正常な人体を表す家屋等は四角である。これらは上空から見た形を指しており、四角の家に天井窓がある場合はロの字形となる。ロの字形の家は、言うなれば人体に穴が空いた状態を表し、内臓系の疾患へとつながる危険性がある。
欠け出し、欠け込みはそれぞれ形が出ている所と引っ込んでいる所である。それらがあるときの中心の測り方は欠け出し、欠け込みの延長線上の角をとる。欠け出し、欠け込みも同様に、家屋の形としては好ましくない。特に、鬼門もしくは裏鬼門の欠け出し、欠け込みは危険な凶相とされる。
これらの条件から、良好な家屋、土地であったとしても、最も主に健康面における凶相をもたらすものは南の水である。家の中心から見て南60度の範囲に水がある場合はその主の不幸へとつながる。その水は溜まった、停滞している水はよくないが、流れる水であっても南に位置することは凶相の一つである。また、南の水の凶相は第一に主、その次は二番目に主人の位置にある者へ反映されていくため、主の健康面が良好であったとしても、その家族に影響が及ぶ。
家の中心に位置するべきものは廊下であり、次に良いものは今である。個人の部屋や階段は好ましくない。最も良くないことは、中心に仏壇を持ってくることであり、それは無くなった者が一家の中心となることを示す。
これらの凶相には逃げ、回避方法が存在するものもある。天井窓があるためにロの字形になった家屋、欠け出し及び欠け込みのある家屋は簡易的な天井もしくは屋根を作り上空から見た形を四角にすることである。家屋の形での家相は上空から捉えた形に基づくため、その箇所を塞ぐことにより欠けている部分を補うことができる。また、所有する土地の形が四角でない場合は、塀や垣根によって四角に形を取る事によって、四角でない土地の凶相を避けることが可能になる。しかし、これらはあくまでも逃げであり、可能な限りは四角の家、土地が好ましい。